大衆運動で干潟を守った
〜三番瀬埋め立て反対運動を振り返る〜
三番瀬を守る会 事務局長 鈴木峰雄
三番瀬守る会の結成
「三番瀬を守る会」は船橋市を拠点に活動している。ピーク時の会員数は500人である。
会の結成は1993年3月である。当時、東京湾三番瀬は全部埋め立ての危機にさらされていた。そのため、三番瀬のすばらしさをアピールする目的でビデオがつくられた。ビデオのタイトルは「命(いのち)のスケッチ」である。その作成委員会を発展させるかたちで「三番瀬を守る会」が結成された。
会が結成された1993年3月、千葉県は三番瀬の2期埋め立て計画(市川二期地区・京葉港二期地区計画)を発表した。これが実施されると三番瀬は消滅してしまう。当会は三番瀬を守るためにさまざまな活動をはじめた。
当時、行政は「三番瀬」という名称をいっさい使わなかった。そのため、三番瀬の存在を知らない市民が多かった。このような状況のなか、「守る会」は三番瀬が豊かな生物相を有する貴重な干潟・浅瀬であることを市民に訴えた。保全されるべき海域であることをアピールしつづけた。
三番瀬を守る署名ネットワークを結成
1996年7月、当会は千葉の干潟を守る会、千葉県野鳥の会とともに「三番瀬を守る署名ネットワーク」(署名ネット)を結成した。
署名ネットは埋め立て中止を求める署名活動をすすめた。世論を味方につけることが目的である。三番瀬の保全を直接訴え、対話しながら署名を集めた。街頭での署名集めは、数寄屋橋や上野駅前など都内の繁華街でもおこなった。署名は全国や海外からも寄せられた。
運動を大きく広げるためには、できるだけ多くの団体や県民に協力してもらうことが必要である。県内の労働組合、生活協同組合、自治会、文化団体、レジャー団体などに協力と支援を働きかけた。署名ネットの加入団体は70団体に増えた。
署名ネットや当会などの三番瀬保全団体は、世論の支持をえるため、さまざまな運動をくりひろげた。親子観察会、現地集会、写真・絵画展、コンサート、文化講演会などである。
「三番瀬の名称は使うな」
署名集めではこんなことがあった。
船橋海浜公園のバス停前で署名活動をしていたら、公園を管理している船橋市公園協会から待ったがかかった。公園利用者が迷惑する、というものである。
また、小学校の三番瀬見学会にたいし、船橋市教育長がクレームをつけた。教育長は引率の先生にたいし、「三番瀬の名称は使うな」と指示した。船橋市は埋め立て反対運動の広がりをおそれていた。教育長の指示にはそのような背景があった。
埋め立て反対運動にたいし、行政の圧力がつよまった。だが、ひるんではならない。そこで、「三番瀬を守る会」の事務局長を私がつとめることになった。
公園協会にたいし、私はこうのべた。「私たちは公園利用者に迷惑がかからないようなやり方で署名集めをしている」と。そのうちに、三番瀬での署名集めは海浜公園前の砂浜でおこなうようになった。
「椎名誠と三番瀬を語るつどい」 に1600人
「三番瀬を守る会」は1999年2月20日、「椎名誠と三番瀬を語るつどい」を船橋市内でひらいた。作家の椎名氏は千葉の幕張で育った。「三番瀬を幕張の二の舞にしてはいけない」と言い、私たちの運動を支援していた。「三番瀬を守る会」の会報である『三番瀬だより』の題字は椎名氏が書いてくれた。
つどいを成功させるため、数多くの団体と個人で実行委員会をつくった。船橋市内のいろいろな団体に働きかけた。その結果、前売り券を約800枚さばくことができた。参加費は2000円である。
ところが当日、前売り券をもたない人が800人も参加した。まったくの予想外である。たくさんの椎名誠ファンが当日券を買ってくれた。その多くは若者である。おかげで参加者は超満員の1600人となった。
椎名氏はこう語った。
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「あのころの幕張の海には干潟が広がり、カニやハマグリなど、おびただしい数の命があった。だけど、いまは埋め立てで高層ビルに一変してしまった。心からふるさとが消えたような感じだ」
「当時はたたかうための知恵がなかった。三番瀬の問題には黙っていられない。埋め立てを許すかどうかは、日本のインテリジェンスの問題だ」
市川市の繁華街でデモ行進
埋め立て反対運動の高まりによって、県(企業庁)は1999年6月、埋め立て計画を見直した。埋め立て面積を740haから101haに減らすという大幅縮小である。しかし、私たちは運動の手をゆるめなかった。「三番瀬や東京湾をこれ以上埋め立てるな」という声はますます高まった。
署名ネットは2001年3月11日、市川市勤労福祉センターで「ムダな公共事業ストップ─財政問題と三番瀬」と題する集会をひらいた。参加者は会場満杯の250人である。集会のあと、市川市の繁華街をデモ行進した。私はデモの総指揮をつとめた。
その数日前まで、私は市川警察署に十数回も足を運んだ。警察署の係長は「参加人数がはっきりしないとデモ行進の許可はだせない」と言う。だが、参加人数を事前に把握するのはむずかしい。私は「市民運動を弾圧するのか」と主張した。そのようなやりとりがつづいた。
そうこうするうちに課長が交渉にでてきた。私は「警察を困らせるようなことはしない。協力できるところは協力する」と言った。それでやっと許可がおりた。
私たちは「三番瀬を守ろう」「ムダな公共事業ストップ」などとコールしながら、JR本八幡駅前の繁華街を行進した。買い物客などに三番瀬を守ることの大切さを訴えた。
ついに埋め立て中止
このデモ行進は、県知事選の最中におこなわれた。運動が大きく広がったため、知事選では三番瀬の埋め立てが最大の争点になった。選挙中に朝日、読売、毎日の3紙がおこなった県民世論調査では、いずれも「埋め立て反対」が過半数を占めた。これをみた堂本暁子候補は、選挙戦の途中で三番瀬埋め立て計画の白紙撤回を唯一の公約に掲げた。そしてみごとに当選した。
署名ネットはこの年の5月、堂本知事と面会し、1万人分の追加署名を手渡した。参加者は20人、提出署名の累計は28万人である。知事が署名を直接受けとったのは、沼田武前知事時代を含めこのときがはじめてである。感無量であった。
堂本知事との面談は1時間の約束であった。ところが、堂本知事のあいさつは長い。25分もかかった。そこで私は、「知事あいさつの25分は約束の1時間から除いてほしい」と言った。そのとおりにしてもらった。
三番瀬埋め立て計画は9月に白紙撤回となった。署名は30万に達した。
30万署名が大きな力
三番瀬埋め立て中止の大きな力となったのは30万の署名である。これによって三番瀬の認知が広がり、世論を味方につけることができた。
超党派の共闘組織である署名ネットが有効に機能したことも大きい。署名ネットには、組織力の強い労働組合や生活協同組合、商工団体、自治会など70の団体が加わった。とくに千葉土建一般労働組合や県民主医療機関連合会、新日本婦人の会はたくさんの署名を集めてくれた。船橋市役所職員労働組合なども力強い支援をしてくれた。私が会長をつとめていた県保育問題協議会もいろいろと尽力してくれた。
三番瀬埋め立て反対運動は大衆運動だった。広範な大衆が主体である。このような大衆運動をくりひろげなければ環境破壊の公共事業を食い止めるのはむずかしい。
日本ではいま、裁判一本槍の運動が幅をきかせつつあると聞く。弁護士と裁判官にすべてをゆだねるやり方である。そんな運動方法はあらためるべきである。三番瀬埋め立てを中止させた運動をぜひ参考にしてほしい。
三番瀬を後世に引き継ぐために
三番瀬の埋め立ては中止となった。しかし、三番瀬を保全する法的措置はとられていない。そのため、三番瀬は依然として開発の危機にさらされている。第二東京湾岸道路の構想も残ったままになっている。
なんとしても三番瀬を子々孫々に引き継ぎたい。そのために、より多くの人に三番瀬のすばらしさを知ってほしいと思う。その一環として、私が利用しているデイサービス(通所介護)のカリキュラムに三番瀬見学を組みこんでもらった。先月17日は24人の利用者が三番瀬を見学した。
「三番瀬を守る会」は、三番瀬へのアクセスの改善や、JR船橋駅前における三番瀬案内板の設置なども求めることにしている。
(2017年3月)
1993年発表の三番瀬埋め立て計画(740ha)
1999年6月発表の三番瀬埋め立て見直し案(101ha)
市民500人が三番瀬で手をつなぎ、「人間の鎖」で埋め立て計画撤回を訴えた=1998年11月
『朝日新聞』1998年11月17日
三番瀬埋め立て中止を求め、市川市の繁華街でデモ行進=2001年3月
『毎日新聞』2001年3月20日
『読売新聞』2001年3月21日
『朝日新聞』2001年3月22日
★関連ページ
- 強大な相手とたたかって勝つ方法〜広く人びとに訴え、国民世論を力に(馬奈木昭雄、2015/2)
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