“裁判一辺倒のすゝめ”に異議あり
〜「おまかせ民主主義」を助長〜
中山敏則
「敗訴確実でも裁判を起こすべき」──。最近はこんな論調が目立つ。はっきりいってバカげた主張である。旧日本軍による白兵突撃のくりかえしとおなじだ。大衆運動の否定でもある。なぜこうした主張がまかりとおるのか。
「負けても裁判でたたかうべき」
裁判一辺倒あるいは裁判偏重の運動を提唱するのは、たとえばこんな本である。『最高裁に「安保法」違憲判決を出させる方法』(生田暉雄著、三五館)、『裁判が日本を変える』(同、日本評論社)、『原発訴訟が社会を変える』(河合弘之著、集英社新書)。
生田氏は『最高裁に「安保法」違憲判決を出させる方法』でこう書いている。
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《行政訴訟や原発のような国家レベルの民事訴訟は、原告側の敗訴になる確率が限りなく100パーセントに近いのです。が、それでも立ち上がることが何よりも大切だと、私は声を大にして強調し続けていきたいと思います。》
《安保法も同様です。全国で違憲訴訟を起こせば、必ず「違憲」を指摘する裁判官が出てきます。あるいは、判決で敗訴したとしても、判決文の中で問題点を指摘する裁判官もきっといます。》
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《日弁連が提案したような公共事業改革基本法をどうやったら実現できるのか。全国各地で裁判をおこす。負けてもねばりづよく裁判でたたかう。それが基本だと思う。》
旧日本軍の銃剣突撃と同じ
敗訴になる確率が限りなく100パーセントに近くても訴訟を起こすべき。負けても裁判でたたかうことが基本だ──。これはバカげていると思う。
旧日本軍は、機関銃で一斉射撃するアメリカ軍にむかって無謀な銃剣突撃をくりかえした。この突撃で何万、何十万という日本兵が犬死にした。「敗訴確実でも裁判を起こすべき」はそれとおなじである。
江戸時代じゃあるまいし…
江戸時代の農民は合法的な訴願しか認められなかった。徒党を組むことや一揆を起こすことは禁じられていた。権力者に訴願しても、要求は認められなかった。
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《合法的訴願の手順を経ない強訴徒党をおこなえば、その内容の「理非」にかかわらずその願いは拒否され、その指導者も参加者も処罰さるべきものであった。(中略)だが、こうした訴願は、身分制支配の機構を下から上へと順次にたどって、収奪の当の担当者たちにその温情にすがって歎願するものだから、当然のことながら、ほとんど有効ではありえない。》(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社)
「裁判だけのほうが楽」
最近は、なんでもかんでも訴訟をおこすべき、という論調が幅をきかせつつある。その背景には「苦労したくない」という願望があるようだ。
たとえば、東京都のある区が進めているスーパー堤防建設事業の中止を求める訴訟である。私は集会でこんなことを何回も訴えた。
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「スーパー堤防事業を裁判だけで止めるのはむずかしい。区内のさまざまな団体が結集する共闘組織をつくり、区民宣伝や署名集めなどを旺盛に進める。そして、区民世論を味方につけて区長を交代させることが必要だ。区長がスーパー堤防を中止すると言えば、それで止まる。大型公共事業や原発建設を中止させたところは、ほとんどがそういう運動をやっている。三番瀬埋め立て反対運動はそのひとつだ」
ようするに「裁判だけのほうが楽」ということである。弁護士にまかせればいいからだ。それで勝てるのなら市民運動は必要ない。
三権分立は幻想
三権分立は幻想である。20世紀の革命家レーニンは「一つの国家に二つの権力は存在しえない」と強調していた。
政治学者の丸山眞男氏も三権分立についてこうのべている。
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《三権分立と俗にいいますが統治組織の問題としては三機能の分化といった方が正しいのです。何故なら、国家が統一的な秩序である限り、物理的強制を背景として紛争を最終的に解決する能力としての国家権力は唯一つしかないのが当然でそれがどんなに多様な機関の分業と協同に依って運営されても、最後的には一つの権力作用として発動するのでなければ、統一的な政治組織ということは出来ないからです》(丸山眞男『政治の世界 他十篇』岩波文庫)
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《司法行政制度における裁判官の「独立と自治」、各級裁判所の「分権と自治」は、あきらかに形骸化している。最高裁が各級裁判所の裁判官の任命・再任の指名、報酬、転勤(転所)、所長・部総括(裁判長)などの人事権限をにぎっており、行政官庁に似た官僚制的構造がつくられている。(中略)下級裁判所の裁判官人事などの決定は最高裁がおこなっているが、最高裁の意思決定機関である最高裁裁判官会議での審議は実質を備えておらず、最高裁事務総局の作成する原案を形式的に承認しているにすぎないともされる。》(新藤宗幸『司法官僚』岩波新書)
「おまかせ民主主義」を助長
裁判一辺倒の運動は「おまかせ民主主義」あるいは「観客民主主義」を助長する。
行政訴訟のほとんどは、弁護士が主役となる。大勢の人が傍聴する法廷で原告側弁護士は一方的な意見陳述ができる。行政訴訟は書面のやりとりがすべてであり、意見陳述は判決に反映されない。だから行政側は意見陳述をしない。反対尋問もしない。口頭弁論は原告側弁護士の独壇場である。住民や市民は観客となる。
さらに、弁護士の多くはビジネス(仕事)として訴訟を引き受ける。だから裁判で負けても弁護士はこまらない。敗訴の責任も負わない。負けたら「裁判官が悪い」と言えばいい。それが行政訴訟の現実である。
主戦場は法廷外にある
念のためにいえば、すべての弁護士が生田暉雄氏や河合弘之氏のようなことを主張しているわけではない。
鎌倉広町の森を守る運動では大木章八弁護士も大奮闘した。大木弁護士は、裁判闘争ではなく自治会を基盤とする住民運動を提案した。そして「鎌倉の自然を守る連合会」の事務局長を引き受けて住民運動(大衆運動)をリードした。
いくつもの訴訟で勝利した実績をもつ馬奈木昭雄弁護士は、「強大な相手とたたかって勝つ方法」(『全国自然通信』第124号)でこう強調している。
「勝負は法廷の中では決まらない。たたかいの主戦場は法廷の外にある」「広く人びとに訴え、国民世論を力にすべき」「どうすれば勝てるかという方法論をきちんと議論しない弁護団は、強大な権力相手の訴訟では勝つことができない」と。
まったく同感である。
王道は世論を味方につけること
生田暉雄弁護士は裁判闘争を王道とし、敗訴しても裁判をくりかえすべき、と主張している(前掲書)。これは間違いだ。そうではなく、民衆の力に依拠し、世論を味方につけることが社会運動の王道である。
それは幾多の実例が証明している。たとえば千葉県における環境保護運動である。
東京湾三番瀬の埋め立てを中止させる運動は世論喚起に力をいれた。署名を30万集めるなど、埋め立て反対の世論を盛りあげた。その結果、2001年春の県知事選では三番瀬埋め立てが最大の争点になった。選挙中に朝日、読売、毎日の3紙がおこなった県民世論調査では、いずれも「埋め立て反対」が過半数を占めた。これをみた堂本暁子候補は、選挙戦の途中で三番瀬埋め立て計画の白紙撤回を唯一の公約に掲げた。見事に当選し、公約どおりに埋め立て計画を白紙撤回した。
千葉県が七里川(しちりがわ)渓谷(君津市)をつぶして建設しようとした追原(おっぱら)ダムも、地元の諸団体や、労山、自然保護団体などが中心となって幅広い運動をくりひろげた。そうやって県民世論を味方につけ、ダム計画を中止させた。
県が南九十九里浜(一宮海岸)で進めてきたコンクリート製人工岬「ヘッドランド」も工事を凍結させた。地元一宮町の若手サーファーたちが「一宮の海岸環境を考える会」を立ち上げ、ヘッドランド工事の一時中止と見直しを求める署名をわずか2か月で4万4000人分を集めるなど、町民世論を味方につけた。それが大きな効果を発揮した。
三番瀬も追原ダムもヘッドランドも、裁判闘争を選んだらまちがいなく負けていた。権力機関(裁判所)に頼るのではなく、世論や民衆の力に依拠したからこそ、中止や凍結を勝ちとることができた。
日本では原発の新規建設を34カ所で中止させた。新潟の巻町、三重の芦浜、石川の珠洲などである。いずれもねばり強い住民運動の成果である。だが、裁判闘争で原発建設を中止させたところは1カ所もない。裁判闘争王道論の誤りは明白である。
若者や米韓の国民に笑われるぞ!
一昨年の安保法案反対運動では、学生団体のシールズ(SEALDs)が大活躍した。国会前でデモをつづけ、大きな影響を与えた。私はシールズのメンバーと何回か話したことがある。かれらは裁判偏重の運動を否定していた。
韓国では朴槿恵(パク・クネ)大統領の退陣を求めて大規模なデモがつづいている。アメリカでもトランプ大統領に抗議する大規模デモがはじまった。韓国のデモを見にいったシールズの元メンバー、矢部真太さん(24)は「デモで政治が変わる」とのべている(『東京新聞』2016年11月30日夕刊)。
「大統領を退陣させるために裁判を起こすべき」と言ったら、シールズのメンバーや米国・韓国の国民に笑われるだろう。
(2017年1月)
★関連ページ
- ストップ・リニア!訴訟への提言〜大衆的裁判闘争への転換を望む(中山敏則、2017/7)
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