祝島の心
田原廣美
(2012年)8月12日の夕方、私はお盆の帰郷を止め、友人と新宿から広島行きの夜行バスに乗り込んだ。上関(かみのせき)原発建設に反対しつづける祝島(いわいしま=山口県)で神舞(かんまい)を見るためだ。
神舞は4年に一度、5日間にわたって行われる大祭だ。886年、嵐に遭って漂着した国東(くにさき)半島の伊美(いみ)の神官たちを、祝島の人々は手厚くもてなした。いたく感じた神官たちは、お礼に農耕の技術を教えてくれた。これをきっかけに、お互いに感謝の気持ちを込めて始まった交流が神舞だという。
祝島に着いたのは、翌日の午後5時ごろだった。神舞の仮神殿はもうできていた。カヤで編んだ苫(とま)で葺(ふ)かれた大屋根の下、神楽の舞台と見物席は、大祭の始まりを心待ちにしているようだった。
初日の16日に入船神事が行われた。櫂伝馬船(かいでんません)を含む船団が本浦から三浦へ向かい、神主さんたちをお迎えした。三浦で神事の儀式を行った後、一行は本浦へ向かった。
仮神殿は、祝島の人々と観光客とで満員。神主や巫女(みこ)による神事やら里楽師(りがくし)や子どもによる神楽(かぐら)やらが連日行われた。
荒神(こうじん)は、神官の御幣(ごへい)を奪い取ろうとしたり、心柱に駆け上がったり、舞台を縦横無尽に暴れまくった。近くにいる子どもを荒々しく抱き上げては大泣きさせ、鬼の棒で村人の差し出した頭を叩いて回った。でも、子どもの母親も頭を叩かれた人々も、とても幸せそうだった。
18日の昼近く、神舞の合間に、私は一人の青年とTさんの棚田へ向かった。まず石組みの上に立つ作業小屋を訪ねたが、人影がない。帰ろうとした時だった。引き戸が開いて不意にTさんが現れた。そして、「暑いから小屋の中へ入りんさい」と言いながら、隣の部屋に招き入れた。Tさんはこんな話をしてくれた。
「おじいさんはよう言いよった。『食べ物さえあればどうにかなる。食べ物が切れると人の良心ものうなる。だから、棚田で作る米は尊い』と」
城塞のような見事な棚田を、三代かけて作り上げた意味がわかった気がした。
午後は、祝島から福島第二へ原発労働者として行ったIさんの所にK君が行くというので、私も同行した。気さくな人で、初めての私も家に上げ、放射線手帳を見せてくれたり、原発労働の様子を話してくれたりした。
Iさんは、1978年から9年間、福島第二原発で3か月弱働いた。炉心冷却用ポンプの漏れを直すため、溶接したあとのやすりかけを10日間ほどさせられたが、線量が高く、すぐにアラームメーターが鳴って、20分から30分で交替したという。
仲間の中には、原子炉の穴を塞ぐ工事を長時間やれるように、鉛で放射能を遮蔽(しゃへい)する作業をしていた人もいたという。Iさんの仲間は、喉頭ガンや肺ガンや胃ガンですでに7人が亡くなった。いまも生きているのは6人だが、体調の悪い人が多いという。Iさん自身も前立腺ガンにかかり、目下治療中だ。Iさんたちの証言も、祝島の人々の原発反対運動の力になっているのかもしれない。
20日は神舞最終日で、出船神事が行われた。港には子ども巫女(みこ)や三味線を持ったシャギリの人々や島人たちが詰めかけた。
「また来ます。ありがとう」
神官たちは船上から大きく手を振った。すると、港の人々は千切れるように手を振りながら叫んだ。
「待ってるよ。4年後また来てね」
伊美へ帰る神官たちを乗せた御座船(ござせん)は、次第に遠ざかっていった。
なぜ祝島の人々が30年も上関原発を止めてこられたのか。もう一つの理由を、心の絆(きずな)を大切にする神舞に見つけた気がした。
(2011年9月)
神官たちを出迎えるために勇壮に舞う若者
子どもを荒々しく抱き上げる荒神(こうじん)
神舞行事の最終日は出船神事。伊美へ帰る神官らを乗せた御座船を見送る。
伊美に向け遠ざかって行く船団
★関連ページ
- 祝島と田ノ浦(田原廣美、2011/5)
- 原発反対の闘いを続ける島〜祝島のすばらしい自然と人々の絆を守りたい(田原廣美、2011/1)
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