原発反対の闘いを続ける島

〜祝島のすばらしい自然と人々の絆を守りたい〜

田原廣美




 昨年6月19日に記録映画「祝(ほうり)の島」を見たのがきっかけだった。映画は祝島(いわいしま)のごく普通の日々の生活を丹念に撮っていた。島民500人、小学生3人。そこには、お互いに支え合いながら、自然と共に生きる島の人々の暮らしがあった。上映後、監督の纐纈(はなぶさ)あやさんとナレーターの斉藤さんとのトーク、そして祝島から駆けつけた人たちの挨拶があった。その直後、私は決めた。「祝島に行こう」と。

 6月22日午後7時過ぎだった。私は新宿から夜行バスに乗って山口県の祝島へ向けて出発した。翌朝6時半に岩国に着き、電車で柳井港へ。9時半の定期船に乗って祝島に着いのは11時近くだった。
 20隻ほどの小型漁船が繋留されたこぢんまりした漁港だった。船を降りて左手に歩き出すと、板塀に黒と赤で「原発絶対反対」と大書してあった。
 まずは宿を取っておこうと、島に3軒だけある宿をすべて当たったが、ことごとく断られてしまった。私は途方に暮れた。ところが、地元のおじさんがそっと耳打ちしてくれた。「はまや旅館はの、いつも本日休業となっとるが、頼み込めば大丈夫じゃ」
 この言葉に勇気百倍。再びはまや旅館へ。
 「あの、どこも泊まるとこがないもんで、一晩でいいですからどうにかなりませんか」
 「でも今日は予約の人がおるから食事出せんよ」
 「じゃ素泊まりでいいですから」
 ややあって、おばさんは言った。
 「それなら……」
 「あさってとしあさっては泊まれますかね?」
 「いいよ」

 宿が決まって一安心。えびす商店で弁当を予約して石積みの棚田に向かった。小学校のあたりまで上り詰めた時だった。白い日覆いの帽子を被ったおばあさんが一輪車で農作業をしていた。何と、映画に登場した伊藤さんだった。伊藤さんは旧知のように、にこやかにいろんなことを話してくれた。でも、「原発は反対だ」ときっぱり言った。
 「棚田に行きんさるの? 平さん、きっと向こうで仕事しんさるわ」
 3キロ近く簡易舗装の狭い道を上っていき、それが切れてさらに歩くと棚田だった。高く積んだ石垣の上に、少し傾いた瓦葺きの屋根の作業小屋が建っていた。赤いサボテンの花を見ながら細道をゆっくり上っていくと、右側に土間が見えた。しかし、平万治さんの姿はなかった。かすかに物音がしたのでそちらを向くと、戸が開き万治さんが出てきた。きれいなさっぱりした白髪で、70過ぎというのに、少年のように若々しかった。
 この後、万治さんと石垣の上にすわって1時間余り話し込んだ。それによると、棚田の石垣は祖父の亀次郎さん、父の義治さん、そして万治さんの三代で積み上げたものだという。だから、体の続く限り守るのだと。しかし、最後に万治さんはさびしそうに言った。「原発問題で、親類縁者の間にヒビが入ってしまったのが一番悲しいね。島に一緒に住んどるだけに、辛いもんがある……」

 翌日は自転車で港から2キロ近く離れた東地区へ行き、そこから自転車を押して島の中腹まで行くことにした。東地区では、稲作とビワをやっている林さんに会った。
 「以前は島中に石を組んで作った棚田がいっぱいあったんだが、今は自分のところと平さんのところだけになってしまったよ」
 林さんはそう言いながら、ビワ畑を見せてくれた。米もビワも予約でもういっぱいだということだった。林さんは別れ際に作業小屋の冷蔵庫からジュースを1本出して手渡してくれた。

 自転車を押しながら木立に覆われた簡易舗装の道を行くと、周囲はほとんどビワ畑で、所々に水を溜める細長いセメントのカメがあった。しかし、黄色く熟したビワの実が収穫されないまま放置された畑も目に付いた。
 道がやや平らになったところで、自転車に乗って少し行くと、木陰でお茶を飲んでいる二人の男性がいた。邪魔をしては悪いと思い、傍らを通り過ぎようとしたら、70がらみの一人にいきなり呼び止められた。
 「どこから?」
 「埼玉です」
 「茶を飲んでいかんね」
 遠慮がちに近づくと「ほれ、ここにすわらんけ」と二人の間に手招きし、ポットのお茶を注いでくれた。これがMさんだった。久しぶりに故郷の祝島に帰り、また畑をやろうと伸び放題の雑木を伐採しているところだという。別れ際に「今晩わしんとこへ飲みにこんけ?」というので夕食後訪ねたら、帰りは何と12時過ぎになってしまった。

 祝島から帰って2ヶ月ほど経ったある日のことだった。また無性に祝島に行きたくなり、再び夜行バスで山口に向かった。Mさんの「いつでも泊めちゃるで」という言葉を思い出しながら。
 Mさんは大歓迎で、アジや鯛を釣っては新鮮な刺身をごちそうしてくれた。そして、練(ね)り壁の路地のおばあさんたちも、自転車で通りかかった私を呼び止め、コーヒーをごちそうしてくれた。私はいっそう祝島が好きになった。
 しかし、私は祝島の未来を思うと暗い気持ちになった。この祝島の向かい3kmのところに、まさに今、上関原発が建設されようとしているからだ。原発には様々な問題がある。放射性廃棄物の処理、プルトニウムの蓄積、原発事故の危険性、原発従事者の被爆、など。その中でも、特にこわいのが放射能汚染の問題だ。放射能は長年の間に食物連鎖の中で濃縮され、何十年も経ってから白血病やガンを引き起こす。しかも、瀬戸内海は内海だ。だから、一度汚染されたら全域に放射能が拡散し、沿岸漁業は壊滅的な打撃を受ける。それがわかっているからこそ、祝島の人々は孫子の代にきれいな海を手渡したいと、30年近く原発反対の闘いを続けてきたのだろう。
 祝島は何度でも訪れたい魅力的なところだ。祝島のすばらしい自然と島の人々の絆を、どうにかして守りたいと思う。

(2011年1月)















原発反対の看板があちこちにかけてある



祝島の子どもたち



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