「あらゆる生物が生きていける環境を大切に」

〜播磨灘を守る会代表 青木敬介さん






 「播磨灘を守る会」の代表を務めている青木敬介さんは浄土真宗西念寺(さいねんじ)の前住職である。半世紀以上におよぶ環境保護運動や思いなどについて話を聞いた。


 2カ所の原発建設計画を阻止


 青木さんが父親の跡を継いで住職になったのは1958年である。その後まもなく、自然環境をよくする運動や非戦・平和・脱原発の運動を始めた。
 日本には原発建設計画を中止させたところが34カ所ある。そのうちの2カ所は、青木さんが住む兵庫県御津(みつ)町(現在のたつの市)と岡山県日生(ひなせ)町(現在の備前市)である。青木さんはこの2カ所の原発建設阻止にかかわった。
 1958年頃、瀬戸内海に面する御津町室津(むろつ)に原発を建設するという話が持ち上がった。青木さんはこう話す。
 「私は周辺の漁協をまわり、原発建設に反対するよう説得した。当時は、“300万円くらいのはした金よりも漁が大事”と言う漁師が多かった。漁協が反対したため、1962年、町長も反対を表明した。室津原発計画は中止になった」
 「1967年には、中国電力が岡山県の日生町(現在の備前市)に原発建設の計画を発表した。瀬戸内海に面する日生町は、瀬戸内海屈指の漁業町である。このときも、私は周辺漁協をまわって原発に反対するよう説得した。中国電力は町長や漁師を抱き込もうとしたが、漁師たちは原発建設反対を表明した。そのため、ここでも原発建設計画は頓挫した」
 「当時の漁師は“カネよりも海のほうが大事”ということを知っていた。ところが、いまは様変わりだ。カネでほっぺたをひっぱたかれると弱い。“きれいな海を残すほうがいい”と言う漁師はわずかになってしまった」
 原発についてはこう言う。
 「本当に原発が必要なら皇居の前につくれ、というのが私の持論だ」


 「播磨灘を守る会」の43年


 1971年、青木さんは漁師や労働者たちと「播磨灘を守る会」を結成し、同会の代表に就いた。結成のいきさつはこうだ。
 青木さんは1957年、京都の龍谷大学文学部を卒業した。学生生活を終えて帰郷したさい、村の前の海の色の変わり方にびっくりしたという。5年前までは海水が澄みきっていて、深いところまで見透せた。それが、黒ずんでしまっていた。浅場の底も見えなくなっていた。原因は埋め立てによる工業開発である。
 「1950年代に入ってから、瀬戸内海は埋め立てとコンビナートの建設が相次いだ。その結果、油汚染や赤潮が続いた。油汚染で多くの貝類とムラサキウニたちが滅ぼされた。赤潮では、定置網に入った磯の小魚たちが犠牲になった。1973年には鐘淵化学工業(現在のカネカ)と三菱製紙のPCB垂れ流しが表面化し、播磨灘の漁業はパニック状況になった。いずれも過大な浅海埋め立て(3万8000ha)が元凶である」
 「ちょうどその頃、星野芳郎氏(技術評論家)を中心に、関西の各大学の若手研究者と学生が加わった瀬戸内海汚染総合調査団が1カ月かけて海上と陸上の両コースに分かれて瀬戸内海の全域を巡回した。この調査に協力した漁民・住民の間で“なんとかせにゃあかん”という思いが募り、『播磨灘を守る会』ができた」
 以来、「守る会」は、播磨灘の海面埋め立てを阻止することに力をつくした。一時は埋め立て計画をはね返したこともあった。しかし、「大企業と行政の前に巻き返された」という。
 埋め立てたのに、使われないで遊休地となっている場所もある。そこを渚に戻せという「磯浜復元」運動が漁師の会員から提起された。だが、「磯浜復元」の請願は、兵庫県議会で審議されながら継続審議(お蔵入り)になった。
 青木さんは、「守る会」の運動をこうふりかえる。
 「長い年月の間に、運動にかかわってくれた人は数多い。純粋に環境破壊を防ごうとした人。政・官・財・学が結びついて利権をむさぼる姿に怒る人。私とのつきあいでかかわった人。いろいろだったが、運動にかかわり、地球環境の大切さや、それを壊してしまうと取り返しのつかないことをわかってくれた人が多い」


 あらゆるものが生かしあい、支えあっている


 青木さんは、環境保護や非戦・平和・脱原発の運動を献身的に進めてきた。その理念は、龍樹(りゅうじゅ=2世紀に生まれたインド仏教の僧)が説いた「縁起(えんぎ)論」だ。つまり、あらゆるものが生かしあい、支えあっている、という思想である。あらゆる生物が、それぞれに関連しあって生きていける環境が大切、ということである。
 青木さんは、今年2月に出版した自著『「縁起」と地球環境』(自照社出版)でこう記している。
《巷間(こうかん)にいう「原子力ムラ」を構成してきたメンバーである財・官・政・偽(にせ)学者とマスメディア、それに加えて全国の原発反対の住民の訴えを斥(しりぞ)け続けた司法の腐敗が、うち揃(そろ)ってもたらしたのが、昨年(2011年─引用者注)の大災害だった。前章でも述べたが、私はこれを「金(カネ)の六角形(ヘクサゴン)」と呼んでいる(拙著『穢土(えど)とこころ』藤原書店刊)。(略)「金の六角形」が押し推(すす)めてきた日本の国土破壊、生命破壊は、原発だけではない。渚、干潟の埋め立て、無用の巨大ダム、不必要な高速自動車道、極めつけは、リニアモーターカー計画と、使ってはならない戦闘機や軍艦に及ぶ。(略)これらのすべてが、深刻な環境破壊と戦争の上になりたっているといってよい。40年余り、環境と平和の問題に取りくんできた私は、このような「いのち」の真像(しんぞう)・尊厳を無視したやり方が、どれほど取り返しのつかない個々の災厄を、多くの生命にもたらせたかを、しかと見てきた。それは、「万物の霊長」などと思い上がった人間が、わずかな知識と技術を、戦争と金もうけのために悪用してきた歴史だった。(略)あらゆるものが生かしあい、支えあっているという龍樹菩薩の言葉を、私どもはもう一度じっくりと噛みしめるべきであろう。この龍樹の縁起の説に学びながらなが年、自然環境の問題に関わっていると、多様ないのちといのちのつながりあいが、働きあいが明確に見えてくる。》


 お釈迦様がご存命だったら


 「寺の坊さんがなぜ、環境保護や平和、民主主義などの運動をしているのですか」の問いに、青木さんはこう答えた。
 「お釈迦様がご存命だったら、“命、海、山よりもカネが大事”といういまの日本の状況をどう言われるか。親鸞聖人だったらどうされるか。私はそれをいつも考えさせられてきた。龍樹が大成した縁起論を学んだはずの僧侶なら、環境や不戦・平和の問題にとりくむのが当然だろう。江戸幕藩体制による宗教統制以来、日本の仏教教団は骨抜きにされた。多くの僧侶は貴族化し、庶民の困窮から眼をそらすようになった。本来の仏教の役割や信心を放棄してしまった。それで、私のようなものが奇異に見えるのだろう」
 青木さんはその言葉どおりに、平和や環境、原発などの問題に旺盛にとりくんでいる。数少ない“行動する思想家”のひとりである。


 瀬戸内法改正とラムサール条約登録をめざして


 最後に、青木さんが掲げる課題についてこう語ってくれた。
 「私にとっての最大の課題は、ひとつは瀬戸内法(瀬戸内海環境保全特別措置法)の改正だ。10万署名をそえた瀬戸内法改正の請願を今国会中に提出し、法制化をめざしたい。もうひとつは、新舞子干潟をラムサール条約に登録することだ。この二つが実現すればいつ死んでもいいと思っている」
(聞き手・中山敏則、2014年2月)






青木敬介さん




◇青木敬介さん
1932年、兵庫県御津町(現在のたつの市御津町)に生まれる。龍谷大学文学部卒業。1958年、浄土真宗本願寺派西念寺の住職に就任(1988年に退任)。1960年頃から自然環境をよくする運動や非戦・平和・脱原発の運動を始める。1971年、漁師や労働者らと「播磨灘を守る会」を結成し、代表に就任。1985年、中曽根首相(当時)の靖国神社公式参拝に対し、違憲訴訟を起こす。2000年、全国自然保護連合の理事長に就任。2002年、同連合の代表に就任(2008年退任)。現在は、播磨灘を守る会の代表、環瀬戸内海会議の副代表、日本宗教者平和協議会(宗平協)の理事などを務める。
著書:『仏教とエコロジー〜播磨灘の環境破壊から〜』(同朋舎出版)、『穢土(えど)とこころ〜環境破壊の地獄から浄土へ〜』(藤原書店)、『寒僧記』(探究社)、『「縁起」と地球環境』(自照社出版)など多数





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