■自治体首長の姿勢と問題点─長野

変貌する長野

〜田中康夫知事〜

伊藤貞彦





 ●はじめに



 2000年10月、長野県民は、県集会・各種団体・市町村議会等の全面的な支援に支えられた前副知事池田氏でなく、政治的手腕の未知な作家田中康夫氏に県政を託した。このニュースは、テレビのワイドショーでもとり上げられ、全国に放映された。いわく、「長野革命」と。
 あれから、知事不信任、再選挙といった劇的な曲折を経て3年余が経過した。その間に、どんな変革や揺れ戻し、混乱や迷走があったのかを、舌足らずではあるがぎっと検証してみたいと思う。


 ●既存の政治勢力



 田中知事を選出した知事選が鮮明に示したのは、県民の県政に対する意識が、県・市町村の首長や議員、商工業・農業等各種団体の代表者たちのそれとは、まったくかけ離れたものであったということである。
 県民の県政意識の変化に対して彼等が鈍感だったのは、県庁出身知事による長期政権の下、それに慣れあい知事与党としての議員の椅子に安住し、生身の県民についに向き合ってこなかったことによるといえよう。
 しかも、その鈍感さは2002年6月の知事不信任と知事失職に伴う出直し選挙まで、ずっと持ち続けられたのであった。もっとも、この時には、県下最大の労組「連合」まで仲間に加わるというおまけ付きであったことは笑える。彼らに対して、圧倒的支持による田中知事再選という形で県民の下した鉄槌は、その後、彼らの内部に自壊を起させた。


 ●風穴をあける



 田中知事の最初の知事選や出直し知事選が終っても、その間県議選がなかったため、県議会の勢力は、田中知事登場以前の顔ぶれのままであった。
 ところで、これまでの県の政策決定は、知事与党を標持する多数派議員によって、県の原案通りにほぼ決定されてきた。彼らは、政策決定にあたって県民との対話より、自らを支える利益団体との対話を重視し、それらとの間で利を分かち合ってきたといってよい。
 そうした体制を永い間見てきた県民にとっては、自らの思いや要望が県政に反映されることなど、夢のような話と考えられたのも無理はない。
 こうした旧県政を形づくってきた構造に対して、知事の仕掛けた作戦は、この構造に風穴をあけるというものであった。
 そのために先ず始められたのが、県下市町村を歩きまわって県民との直接対話を求める「車座集会」の開催である。これは、生涯県に対して直撃的に物言うことがなかったかも知れぬ多くの県民の、生の声をひき出した。集会は130回に及んでいる。
 次が、県内各地に知事室を移動して開設する「どこでも知事室」である。ここでは、県議や、市町村議会等を経由しない地域の要望が訴えられた。
 もうひとつは、公募に応じて選ばれた県民に知事が直接会う「ようこそ知事室へ」である。ここには、これまで県の中心的施策からは排除されがちだった、いわゆる社会的弱者の声が直接届けられたことが大きな収穫だったといえる。この方も、すでに29回161組に及んでいる。
 ここから汲み上げられた問題が、すべて県の施策に容れられたというわけではないが、これによって、県民の側からの県政への風穴がはじめて明けられたことは、過程としての民主主義にとって、極めて大きなものであったし、ありつづけているといえる。


 ●政変という嵐



 田中知事はまた、県の機構改革と、公共事業のあり方にも大ナタを振るった。2000年11月、長野市の浅川ダム計画に治水上の問題ありとして、一時中止を宣言、12月には、建設に着手しつつあった「子供科学センター」を構想があいまいとして見直しを表明した。
 2001年4月には、知事直属の政策秘書室を設置して、従来の役人と集会のなれあいによる政策決定のあり方を問い直し、2002年4月には行政改革推進室を設置し、庁内の各係を廃止し、行動的なスタッフ制を採用した。
 また、同年12月には平成の合併問題を踏まえて、市町村課に「まちづくり支援室」を設置し、2003年4月には、知事直属の経営戦略局を設置した。さらにこの年には、各部局・課の機能的行動化をめざす統廃合やチーム化を行い、深刻化している景気対策としては、「産業活性化・雇用創出推進局」を設置している。
 田中知事は、公共事業の軸を教育・環境・福祉におくことで、従来の土木建設中心というあり方からの転換もはかっている。ただ、こうした知事のやや性急なトップダウン的問題提起は、県庁内に激震をひき起し、現場を混乱させていることは確かである。しかし、従来の県政の枠組みを根本的に問い直してみようとする問題提起は、それを上まわるだけの意義があるといえる。
 なお、「子供科学センター」は財政上の理由から構想のつくり直しが行われたにもかかわらず、2002年11月に中止が決定、松本・糸魚川連絡道路建設も、現計画では不可能と断が下されている。


 ●脱ダム



 田中知事が全国に発信したメッセージとして最大なものは、何といっても「脱ダム」宣言(2001年2月)であった。
 すでに、長野県では9カ所の県営ダム計画が進行中であり、そのいくつかについては、10年近くにおよぶ反対運動も展開されていた。こうした中での「脱ダム」宣言である。これに対しては、議員のみならず計画者であった県土木部のトップが反発した。独断にすぎるという訳である。
 知事は、こうした反発に対して「県治水・利水ダム等検討委員会」を設置、県内・外の執着を委員に委嘱、これに県議会の代表を加え、まずはダムありきでない治水・利水案の検討を委ねた。
 ところが、県議会ではこの委員選任についてダム反対派に顔ぶれが片寄っていると反発、結局この委員会の下に流域毎に治水・利水流域部会を設置し、これに住民代表を加え具体策を検討させることとした。
 県義会のダム推進派がせっかくの巻き返しをはかったのであるが、治水・利水流域部会の結論は、ダムなし案や、ダム案とダムなし案の両論併記となり、2003年6月に知事に答申されたのであった。
 この答申を受けて、浅川(長野)、砥川(下諏訪)においては、県の治水・利水原案が堤示され、公募委員による流域協議会が設置されて、検討がなされている。
 それはともかく、「脱ダム」宣言は、全国のダム反対運動を勢いづかせ、全国に脱ダム宣言支持の署名運動が広がった。その延長上に、現在ダム撤去を求める運動も開始されているのである。


 ●田中県政の行方



 田中知事がつくり出しているさまざまな波紋や激震に対しては、もちろん批判はある。
 日く、思いつきや独断専行が多い。日く、県外でのパフォーマンスや講演などの活動が多すぎる。日く、トップダウンの改革は現場に混乱をつくりすぎる。日く、理想主義的で具体的方策に欠ける。日く、組織いじりが性急すぎる。日く、云々といった次第だ。
 しかしこれらは、そのまま裏返せば、化石のように固着化してきた従来の体制や思考を打ち破るには、効果的な方法ではないかとも思える。古いものの改革には、多少毒も伴うものだからである。
 今気がかりなのは、砥川流域協敢会で見えてきた問題である。
 協法会では、「脱ダム」の方針にそって県の治水・利水原案が示され、これについて検討が加えられてきた。
 県の原案は、次の3つの条件を前提にまとめられたものであった。
  1. 議会よりダムに代わる代替案を強く求められているため、12月集会には示せる案であること。
  2. 国の補助金を受けるため、国交省の河川構造物についての基準を定めた「構造令」にかなうものであること。
  3. 脱ダムの理念にそったものであること。
 ざっとみて、@は協議会の検討に時間的制約を加えるものであり、Aは環境への配慮に譲歩を迫るものである。
 もし、脱ダム宣言に盛られた環境に配慮した新しい河川管理のあり方である「長野モデル」を求めるということからすれば、検討に著しく時間的制約が加えられることは理不尽である。といって、12月議会に治水案を提示できなければ、知事を苦しい立場に立たせることとなるかも知れない。
 また、「構造令」に従うことも「長野モデル」にとっては不都合という面もあるであろうが、国の補助金抜きで流域管理事業が行えないとなると、これを無視する訳にもいかないこととなる。
 こうしたさまざまな思惑の対立によって、砥州の協議会は環境派内にも意見対立を生んだ。そして、その混乱をひきずったまま時間切れの多数決で、県原案は承落されてしまったのであった。しかし、環境より治水優先を強弁する側からみても、この原案はかなり物足らぬものであり、議会の承認が得られるとはとても思えない。とすれば県は、法会に原案だけは提示するということのためだけに、協議会を開催したということになろう。まことに馬鹿らしい茶番であった。
 それはともかく、課題はわたしたちにも依然として重苦しく残されたままである。

(2003年12月) 





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