中条堤と堤防決壊口跡を見学
〜江戸時代の利根川治水対策に学ぶ〜
全国自然保護連合のメンバーは(2012年)11月17日、埼玉県にある中条堤(ちゅうじょうてい)を見学しました。場所は、行田市の北河原と旧妻沼町(現在は熊谷市の一部)の日向です。
中条堤は、江戸時代において利根川の治水対策の要(かなめ)となっていました。利根川の洪水を中条堤の上流側へ一時的に湛水させ、下流側を洪水の被害から守っていたのです。つまり、広大な面積をもつ遊水地(中条遊水地)に洪水を貯留し、洪水被害を最小限に食い止めるために設置された堤防ということです。
中条遊水地の面積(洪水氾濫面積)は約50km2、治水容量(貯水量)は1億m3といわれています。大洪水時に大きな効果を発揮しました。
中条堤に設置されている立て看板
■「水を治めるものは天下を治める」
中条堤の長さは約4kmといわれています。堤の高さは5mくらいです。
中条堤は、徳川家康の命を受けた伊奈忠次が整備したとされています。現地をみて、家康や伊奈忠次らの偉大さを改めて認識しました。
「水を治めるものは天下を治める」という言葉があります。治水事業は為政者の大きな仕事でした。ところが、いまの日本の為政者は、治水事業を利権の対象にしています。そのため、“金食い虫”の巨大ダムを推進です。ダムは治水に役立たないのに、です。
■カスリーン台風時の破堤箇所も見学
中条堤を見たあと、利根川堤防の決壊口跡にも行きました。埼玉県旧大利根町(現在は加須市の一部)の新川通です。
1947(昭和22)年9月、カスリーン台風によって利根川が増水し、ここの堤防が約340mにわたって決壊しました。そのため、埼玉県東部から東京都23区東部にかけて、広い地域で大規模な浸水被害が発生しました。旧大利根町は全域が水没しました。
利根川堤防の決壊口跡にはカスリーン公園が整備されています。公園には、決壊口跡の記念碑や国交省の大利根水防センターなどが設置されています。センターには、堤防決壊や洪水被害の状況を撮影した写真も展示されています。
決壊したときの様子を上空からアメリカが撮影していました。決壊口のすぐ下流には東武鉄道の橋がかかっています。この橋はいまもかかっていて、橋脚が何本も立っています。また、そのすぐ下流は渡良瀬川との合流点です。
土木技術者のSさんは、この航空写真を見てこう言いました。
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「この写真を見ればこの場所が決壊した原因が推測できる。ひとつは、すぐ下流が利根川と渡良瀬川の合流点となっていることだ。鉄道橋に流木などの漂流物が引っかかったことも考えられる。これらのために、水の流れが悪くなった」
鉄道橋に流木などが引っかかったことが堤防決壊の一因であったことについては、塩野谷勉さんも指摘しています。
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《1947(昭和22)年9月のカスリーン台風では、埼玉県加須市新川通の堤防(利根川右岸)が約340mにわたり決壊した。決壊箇所にはスーパー堤防がつくられている。堤防の敷地にはカスリーン公園も整備されていて、そこに「決壊口跡」の記念碑も設置されている。決壊地点から下流を眺めると東武日光線の利根川橋がかすかにみえる。橋は利根川の堤防よりやや低いように見える。カスリーン台風のときは、この橋の部分に木の根などの漂流物が溜まった。そのため、川の水がどんどん上に溜まり、ここで越流し決壊した。》
■増水時には水の流れが悪くなるという
構造的な問題を抱えていた
ウィキペディア(Wikipedia)でもこのことが指摘されています。堤防決壊の原因として、鉄道橋の存在と渡良瀬川との合流点だったことをあげているのです。また、明治43年の大洪水時に破堤しなかったため、行政が楽観視していたことも指摘しています。
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《カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県東村(現在の埼玉県加須市付近)での利根川堤防の破堤である。この場所は江戸時代に人工的に開削された新川通と呼ばれる直線河道であり、「明治43年の大洪水」の時には破堤しなかったため、比較的楽観視されていた場所であった。
しかし実際には上流の遊水地帯が開発によって消滅しているなど、「明治43年の大洪水」当時とは状況が変化しており、利根川の水は全て新川通に集中することになった。それに加え、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
こうした要因によって、15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに東村の利根川右岸提が340mにわたって決壊。濁流は南に向かい午前3時には栗橋町(現在の久喜市)、午前8時には鷲宮町(現在の久喜市)、午前10時には幸手町(現在の幸手市)、午後1時には久喜町(現在の久喜市)に到達する。濁流の進行速度は決して早いものではなかったが、濁流がどこに流れるか、どこに避難するべきかという情報に乏しかったため、避難はスムーズに行かなかった。》
■昔の人は川と共存していた
カスリーン公園に来ていた地元の人が興味深いことを教えてくれました。こんな話です。
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「昔は、利根川沿いの浸水常習地帯では水塚(みずづか)がつくられていた。水塚というのは、家の敷地の一部を盛り土によって1〜5メートルくらい高くし、そこに倉(くら)などの建物をつくったものである。倉には洪水に備えて米、味噌、醤油などを蓄蔵し、水が引くまで避難生活をおくれるようになっていた」
「洪水によって水田が灌水(かんすい)すると、良い稲ができた。川の氾濫が肥えた土を運んでくれるからだ。昔の人は、肥えた土を利用して農作物を収穫する一方で、洪水に対するさまざまな備えをしていた。水塚はその象徴だ」
いい話を聞きました。昔の人は川の恵みを最大限活かしながら、川とともに暮らしていたということです。
利根川の治水対策もそうした先人の知恵に学ぶべきです。超過洪水対策として遊水地を増設すべきです。100年確率や200年確率を上回るような大洪水や破堤に備え、農地を遊水地として利用することも講じるべきです。大洪水時に灌水したらきちんと補償すればいいのです。
■江戸時代の治水対策に学ぶべき
塩野谷勉さんはこう提案しています。
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《江戸時代の治水対策に学ぶべきだと思う。その特徴は、洪水は常時起こるものではなく、年に一度、10年に一度、100年に一度となるごとに大きさが増大するという洪水の性質をよく理解していたことである。それらに適した土地利用策を講じていた。
また、利根川の中流から下流にかけての沿岸村落には数多くの輪中が存在し、一般の民家でも水屋や水塚を備えていた。川が氾濫しても、大きな被害が生じないようになっていたのである。浸水区域には水に強い作物(桑、果樹など)を栽培していた。
一方、利根川全体をみると、中流部の酒巻・瀬戸井の狭窄(きょうさく)部や、上流に存在した広大な中条(ちゅうじょう)遊水池の洪水削減効果が非常に大きかった。中条堤(ちゅうじょうてい)から下流の河道に大洪水が流れないようになっていた。
この中条遊水地は、面積49km2、容量1億1200m3といわれている。大洪水時に大きな効果を発揮し、この中条堤が江戸時代の治水対策の要(かなめ)となっていた。
中条堤付近は利根川の勾配が急に変化し、ゆるやかになる地点である。下流には大きな沖積平野が開けていた。これらの地域の特性をよくつかみ、酒巻・瀬戸井では、狭窄部といって川幅を狭くしておき、洪水が流れにくいようにしていた。その上流に中条堤を築き、善ヶ島堤などからあふれでた洪水をこの地域内で一時的に溜め込み、本川の水位が下がってから排出するという遊水池の機能をもたせていたのである。(中略)
ようするに、利根川の治水対策は、堤防補強と遊水地整備、そして避難対策を基本にすべきということだ。膨大なカネがかかり、いつ完成するかわからないような事業はやめるべきである。》
江戸時代の治水対策に学ぶべき──。中条堤などを見学し、そのことの正しさを実感しました。
(文責・中山敏則)
国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所発行『TONE PHOTO 2005 利根川航空写真集』より
中条堤。江戸時代は右側が中条遊水地となっていた。
右が中条堤。左は福川の堤防
カスリーン公園
カスリーン台風時の決壊口跡記念碑
決壊口跡からみた東武鉄道の橋。カスリーン台風のときはこの鉄道橋
に流木などが引っかかり、水の流れが悪くなったといわれている
栗橋吉田家の水塚
国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所発行『TONE PHOTO 2005 利根川航空写真集』より
★関連ページ
- 問われる利根川の治水対策〜「利根川の堤防を歩くツアー」に参加して(塩野谷勉、2012/10)
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